ヒストリー

大工とともに質の高い家づくりに取り組む 丸三ホクシン建設の歩み

株式会社丸三ホクシン建設は、昭和49(1974)年に、現社長首藤一弘の父、首藤喜四男が創業しました。以来40年以上にわたって、札幌圏の工務店として多くの皆様のご支援をいただいております。

丸三ホクシン建設は、大工の育成や住宅性能の重視、そして施主様の要望を踏まえた自然素材を活かした家づくりに取り組んでいます。
こうした「ホクシン建設らしさ」はどのように生まれ、どのように成長しているか、皆様にぜひ知っていただければと思います。

初代社長・首藤喜四男

波乱万丈の創業

昭和5年に札幌で誕生

昭和4年当時の札幌市の地図

昭和4年当時の札幌市の地図(北が右)

現社長首藤一弘の父、首藤喜四男は、昭和5(1930)年に札幌区字豊平町(現在の札幌市豊平区)で8人兄弟の4男として生まれました。

札幌市は2017年現在、国内第5位の人口196万人、東西に42.30km南北45.40kmの大都市になりましたが、喜四男少年の子ども時代は、札幌市内は二里四方(一里は約3.9㎞)と言われており、円山も円山町、元町も元町村で札幌市ではありませんでした。

戦争で困窮

札幌市第二高等小學校(現在の札幌市立柏中学校)に通っていた頃は第二次世界大戦中。勉強よりも軍事訓練、勤労奉仕を先生に褒められる時代でした。喜四男少年は同級生達と一緒に苗穂駅前にあった鋳物工場で、各家庭から供出された鉄瓶などの鉄製品を、鉄砲玉などの武器に作り替える勤労奉仕をしていました。食糧難で、食事が一度も食べられない日も珍しくない状況でした。お父さんはボイラーマンで、豊平に出来た道内初のドライクリーニング工場で勤務していましたが、家族を守るため、道北の美深(びふか)に移住を決意しました。

昭和初期の狸小路周辺の様子

昭和初期の狸小路周辺の様子

美深町で勤労奉仕

美深町は軍需工場でもある木工場があり、喜四男少年も勤労奉仕を開始。森から切り出された木材を使って船舶や航空機を製造する仕事でした。朝6時から夜の6時頃まで厳しい仕事をしながら、原木を製材にするために帯ノコを調整する「目立て工」を目指し修行を積んでいました。15歳の時、兵士として配属先が決まる寸前に終戦。この時代に喜四男少年は、木材の性質や木材加工の技術を学びました。

終戦後、冬はやまご(林業者)に

写真右が首藤喜四男(現・丸三ホクシン建設会長)

木工場からは終戦直後の混乱もあり「辞めたいやつは辞めて良い」と言われました。働き詰めだった喜四男少年は退職を決意。冬が近くなる10月からは「山仕事」を始めました。本州では「きこり」(木樵)と呼ばれますが、北海道では「やまご」(山子)と呼ばれました。わらじの上から毛布を巻いて足を寒さから守り、ノコとまさかりを買って、森林伐採の仕事を見よう見まねで習得。「やまご」として、木材の育ち方や伐採の方法、製材のよしあしなどを学んだ経験はのちに大工、そして工務店社長として活かされます。

夏は大工仕事。お姉さんの家も建設

夏場は地元の工務店「関根工務店」で大工仕事をしました。棟梁と弟子である喜四男少年だけの小さな工務店。住宅建築の仕事を主体とする工務店で、腕を磨き、22歳で棟梁として住宅を建てるまでになりました。

住宅建設は地域全体のよろこび

写真は、昭和29年に担当した美深の農家住宅です。当時は家が建つとなると、近所の人たちが現場を見に来るだけでなく手伝いもしました。お年寄りはたき火をしながらくさび作り、女性たちは食事の準備、子どもたちも大工のカッコいい仕事ぶりを見て、大工に憧れる子もいました。この写真も、現代の目線で見ると、足場もなく、ヘルメットもかぶっていないので安全面では心配ですね。その一方、地域で家が建つことは地域の発展につながる嬉しい出来事として、地域の皆が喜ぶ時代でした。施主は家を建ててくれる大工さんに昼食や飲み物も用意するという時代でした。

札幌で大工として独立、結婚も

喜四男氏のお姉さんが札幌で家を建てることになりました。弟である喜四男少年は生まれ故郷でもある札幌に戻り、住宅現場で学んだ知識を活かし、お姉さんの家を建てました。その後も大工としてさまざまな現場を経験、住宅会社で大工として働いたこともありました。昭和34年には、美深出身の智恵子さんとお見合いで結婚。昭和38年に長男の一弘さんが生まれました。のちの丸三ホクシン建設2代目社長です。

昭和40年代の住宅建築ブーム

当時、大工になるのは農家の次男坊、3男坊が多く、多くが北海道に出稼ぎにくる内地の大工さんでした。数年大工の見習いをして独り立ちできるようになったら、5~6人で組になって北海道にやってくるのです。道内の建築主にとって、道内の大工より内地の大工の方が腕が良いという固定観念も当時はあり、収入の面では厳しい経験もしました。昭和40年代のオイルショック後、道内の住宅着工が増加、大工不足が深刻になると、給料の高さに惹かれ、腰に釘袋をぶらさげたら大工、と言われるほど、にわか大工が増えました。そんな時代の変化はありましたが、喜四男氏は美深時代に学んだ木材加工の知識・経験や大工としてのスキルをさらに伸ばし、しっかりした施工ができる大工として活躍しました。

気管支ぜんそくで大工から監理者へ

喜四男氏は、昭和30年から48年にかけて、道の営繕工事を中心的に受託していた沢田組という建設会社で、大工として休みなく働きました。多くの現場を経験する一方、子どもの運動会にも参加できないほど多忙になり、ついには気管支ぜんそくを発症。カンナがけをするだけでも息が苦しくなり、大工仕事を続けられなくなってしまいました。以来40回以上もの入退院を繰り返しながら働くとともに、2級建築士の資格を取り、串田建設という住宅会社で、現場管理や材料の仕入れなどの仕事を始めました。

勤め先の工務店が倒産!

ところがその住宅会社が入社後約半年で倒産。札幌市北区屯田で約10棟の建売住宅を建てていた現場もストップしてしまいました。困った発注者が、社員だった喜四男氏に工事の引継ぎを要請。未払いのままでは現場に入っていた大工や専門工事会社も困るので、何とかしようと喜四男氏が中心になって工事を再開。この経験が工務店創業につながったのです。

昭和49年に札幌で丸三ホクシン建設を創業

大工としての経験だけでなく現場管理の経験もある喜四男氏に、ある住宅会社の支店長が工務店設立を打診。昭和49年に札幌で丸三ホクシン建設が誕生しました。3人の中心メンバーが力を合わせ丸く納める、という願いが「丸三」の屋号の意味です。「ホクシン」は喜四男氏が通った小学校の校歌に「北斗に進む」というフレーズがあったことから名付けました。

昭和60年までは札幌にあった、丸三ホクシン建設の社屋

住宅・建築・営繕工事などを多数経験

売上げを確保するために、営繕工事を数多くこなしたり、大手ハウスメーカーの下請けなどもしながら、会社と従業員を守り続けてきた喜四男氏。木目の幅や癖を見分け、木の性質を踏まえた住宅施工や、日の出の方向に玄関を置くといった家相など、家づくりの伝統なども意識した家づくりを進めてきました。「一棟あたりの木材使用量が多すぎる」と建材店に心配されるほど丈夫で質の高い家づくりにこだわり、建設後も一生面倒を見るという気構えを持って家づくりに取り組んできました。

「建てた家は一生面倒を見る」
という大工の責任感

喜四男氏は「今まで数え切れないほどのお施主様の家を建てさせて頂きました。施主様からも、家を建てた大工、として私たちは感謝の思いをたくさんいただいてきました」と力説します。「私は根っからの大工気質。腕を磨くことには熱心だけど、完璧な住宅というものは存在しないと思っている。だから建てさせて頂いた住宅の不具合は一生涯、しっかり責任を持って直すことが大事だと思っています」と話します。

左から首藤智恵子さん、首藤喜四男会長、首藤一弘社長

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